第1チャクラは、感情や精神面での健康の基盤となります。人の成長過程において、スタートとなる初期の人間関係(家族)や生まれ育つ環境状態は、この基盤の安定に深く関係しています。

人生を通してですが、特に幼少期に人間の生活の基盤となる衣食住において安心できない環境にあった場合、基盤が弱まりやすくなっているかもしれません。

 

自分の居場所や帰る場所がある、といったことや、何らかのグループに属し、一員であるという意識は精神面での安定を助けます。

家族の一員として人生を歩み始める私たちは、同じ意識を持つことの強みや弱み、信念、固定観念、道徳的なルールを学び、他人と信念を共有し、分かち合う喜びを経験します。
また、それと同時に集団から隔絶されることの辛さ、恐れ、孤独も学びます。

この学びは、時には道しるべとなり、相手を尊重すること、グループに属するとはどういうことかを教えてくれます。

 

集団の力は身体の機能に例えると、外部の危険から身を守る免疫系と同じ働きをしてるといえます。免疫とは生体が「自分と違う異物」を識別し、排除しようとする人体の防御システムのことで、身体を守るという役割と共に、不必要な物を排除するという働きをします。

ですが、実生活においては、外部のもの全てを排除することが自分の身を守る術ではなく、必要なもの、不必要なものを正しく識別をすることが、本当の意味での免疫力をつけることになります。
そこで、自分に見合った判断基準を育てる為に、私達ひとりひとりが、自分と集団との間で感じている違和感や問題点を無視せずに、認識するという作業が必要になってきます。


私たちは、自分が属する集団から誠実さや、誇り、正義、責任感などについて学びます。人間性の形成上、どれも欠かせない資質ですが、狭い解釈をしてしまうと、限定的な考えで自分を縛ってしまう要因にもなります。
集団共通の信念は、100人中100人に当てはまるものではなく、個人にとっては真実と虚構が混ざり合ったものです。違和感を感じるものがあれば、まずその相違点を無視せずに認識すること、そして自分の真実と一致するものを取り入れ、反するもので自分を縛らないことが私達の魂の成長へとつながります。

もし、自分が誰かの犠牲になっていると感じていたり、自分らしく生きることに罪悪感や抵抗感などがあれば、世間体、集団意識にのまれがちになっているのかもしれません。


しかし、自分が正しいと思って育ってきた環境・集団に対して、反対意見を持ったり、離れることは簡単ではなく、恐れも伴います。私たちは、小さい頃から社会的マナーやルール、服装、態度も周りから認められるような選択をするように教えられます。周りのルールに適応することで、そこには一体感が生まれ、何かの一員であるという安心感やパワーが得られます。が、それと同時に、自分自身の創造力を探求し、個人としての力と尊さを育みたいという本能的な欲求が、人生においての“気づき”を得たいという思いを抱く火種のようなものとなります。

自分の資質に気づき、それをどう使うかに気づいていく過程が人生の旅路であり、選択することで生まれる自己責任を認識するようになるのが、この旅の要となります。

 

”変化”とはまさしく人生の本質で、常に続いていくものです。内面的に成長すると、これまで信じてきたことの一部からは離れていくだろうし、逆にさらに強く信じるようになることもあるでしょう。

集団において共有する考え方やルールなど、物質世界で信じられる常識の見直しは、体、知性、それに魂が活発に生きていくために必要なプロセスで、魂の成長過程においてまず初めに与えられる課題となります。

 

人生で起きる数々のピンチは、役立たなくなった固定観念の殻を破り、自由になる必要があることを教えてくれます。自分が変わるのか、あるいはそのままの状態でいるのか。分岐点に立ち、新たな選択をすることは、大きな挑戦となります。分岐点とは、人生が新しいサイクルに入ることを意味し、この変化は必然的に慣れ親しんだ人々や環境から離れることも伴いながら次の人生へのステージを歩んでいくことなのです。

 

当然、この二つの分岐点からなかなか前へ進めない人はたくさんいます。もうしがみつきたくない過去の世界、そして、踏み込んでいくのがまだこわい、新しい世界。変わりたい、次のステップへ進みたい、と変化を求める反面、自分の健康、キャリア、価値観、全てにおいて自分自身で選択し、責任をとるというのは、とても恐ろしいことに感じるかもしれません。失敗した時にも当然、他の誰でもない自分の責任となるからです。

 

例えば、慣れ親しんだ世界から、新しい一歩を踏み出した時に、何か苦痛に満ちた体験をすると、原因は何だったのかと、長い間、間違い探しに時間を費やす人がいます。満足できる原因が見つからないと、前に進むこともできず、かといって過去を手放すこともできずに、もやもやした気持ちのまま暮らします。外側の視点から見ると、この苦痛は自分の行いに対する罰か、ルールに背いた結果なのかと考え、後悔する人がいるかもしれません。しかし、この苦痛は一人の人間として魂の成長に欠かせないものでもあり、大事なこととは、選択の力を自分に与えられるのは自分自身であり、誰かから与えられるものではないと思い出すことなのです。